私のおばあちゃん
私の祖母はいま、いつどうなっても良いような状態となっています。そう、つまり死期が近づいている…それを意味します。
今はもう、ほとんど目を閉じています。無理やり目を開かせても、そこには虚無の瞳が光ることなく一点を見つめるだけ。それでも時に、黒目を動かしてくれてやっと目が合った、そんなこともあるから希望は捨てられません。
母から「もしかしたらおばあちゃんが危ないかもしれないから、近いうちに会ってくれないかな?」という連絡が来たのは数日前のこと。祖母は今、老人病院とも言われるところに入院をしています。ありがたいことに、管などに繋がれているわけではなく、ただそこでひっそりと命を謳歌しているのです。
正直祖母の容体は、だいぶ前からこのような姿でした。なのに母から連絡がきた。
「これは、もうすぐなのかもしれない…」
目を背けてはいけない、覚悟を持たなくてはいけない日が来たのかもしれません。
そこで今日、母と共に山の上の見晴らしが美しい病院へ行って来ました。
私が目にした祖母の姿は、正直前回会った時と変わっていませんでした。しいて言うなら、目を閉じている時間がほとんどずっと、になってしまったかなくらい。
祖母は目を閉じています。
でも、耳はしっかりしているのです。
おばあちゃん、来たよ。
分かったら手握ってね。
そう耳元で優しく声をかけると、寝たきりの人とは思えないくらいギュッと力強く握り返してくれるのです。
おばあちゃんは、生きている。
お昼ご飯が運ばれてきました。
母から事前に聞いていたのですが、食事を介助してくれる介護士さんが人によって厳しさが違うと。
今日来てくれた介護士さんは、60代くらいの女性。
「この人も自分の親の介護とかあるだろうに」
なんて感情が私の頭をかすめました。
祖母に用意されたごはんは、まるであんかけ焼きそばのあんが全てにかかっているかのようなもの。それでもなんだか美味しそうに感じてしまったのは、朝から私が何も食べていなかったせいもあるのかもしれません。
介護士さんは、きつく祖母に声をかけます。
「口あけて!」「噛んで!」「目あけて!」「飲み込んで!」
どれも今の祖母にとって、それは命をかけて、息を切らしながらしか出来ない行動です。それでも繰り返される司令、これがもし、もう少し言い方が優しかったら良いのでしょうが、今回の介護士さんの口調は語尾がとても尖っていました。
もし私が祖母だったら
「わかってるよ…分かってるけど出来ないんだよ…」
そんな気持ちになるだろうなぁなんて思いながら祖母の顔を見つめると心なしか左目が濡れていました。
祖母は昔から恐らく結構なお嬢様として育てられました。怒られるという経験はあまりしてこなかったと思います。
その左目の涙の意味は、祖母にしか分かりません。でも私が思うに祖母は、悔しいのではないかな、と思うのです。
食べたいのに、思うように体が動かない。
それなのに、怒られる。
孫もいる前で、怒られる。
介護士さんにもっと優しく言えないんですか?なんてことも言いたくてたまらないけれど、介護士さんもきっとうちの祖母だけでなく多くの患者さんを抱えていて、祖母だけに時間を割けないというのもあるんだろうなと思うと何も言えず、ただただ横で「おばあちゃん、もうちょっと、あと一口」と声をかけることしか出来ませんでした。
怒る、という言葉で思い出したのですが、祖母の息子、つまり私の父はとても癇癪持ちです。祖母が認知症の症状を出してきた時も、足が痛くいと言って歩けなくなった時も、父は祖母を怒鳴りつけました。むしろ、顔を合わせていた時に父が怒鳴らなかった日なんてなかったのではないかと思うくらい。
父が怒鳴っている時、祖母は私の顔を見て「なんか怒ってるね」なんて、ちょっといじわるそうな顔をして、逆に父をいじる、なんてこともしていました。でも今はもう、それさえも出来ないのだと、あの頃の祖母を思い出すとそのやりとりさえも愛おしく思えてきました。
今祖母は、間違いなく「死を待っている人」です。
まだ会話ができる頃から、「もう生きたくない」という言葉を祖母の口から聞いたことがありました。それでも生かされているのはなぜなのでしょう。
以前、100歳を超える曾おばあちゃんが小さな私にこう言いました。
「長生きの秘訣はね、『生きたい』と強く願うその心なんだよ」と。
でも今私の目の前にいる祖母は間違いなく、生きたいとは願っていません。すでに亡くなっている祖父の近くに行きたいのではないか、そう思って仕方ありません。
でもやっぱり祖母は今も生きています。
命がけでごはんを食べるために、生きています。
祖母の1日の仕事といえば、3回ごはんを食べることなのです。命をかけて。食べている最中、息が荒くなっている祖母。何度も「もうごはん食べるのやめようか」と止めたくなるくらい、一生懸命でした。
食べ終わったあとは、すぐに眠りにつきました。
寝させてあげよう、私と母は最後に声をかけて病室を後にします。
「おばあちゃん、帰るね」
その声を聞いた祖母が、体にかけられた毛布からするすると手を伸ばし握手を求めてきます。
ギュッと握ると、やっぱりギュッと握り返してくれる。
おばあちゃん、辛い思いをさせてるね。でも、おばあちゃんが『生きたい』と思うまで生きていいからね。まだ、生きている。手からおばあちゃんの鼓動を感じて。あと何回会えるかな。